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天野家の歴史

なぜ天野家なのか? 

 世田谷等々力の地に住むようになって、50年(2012年現在)。
父が元気だったころは、毎年200人の外国の方が宿泊していきました。

 父(天野益夫)にとっては戦前、1939年、日米学生会議で訪米したことが、その後
の生き方に大きな影響を与えたようです。 
 同期に前総理大臣の宮沢喜一氏がいたことなどはを誇りに思っていたようです。


 
父親は戦後間もないころGHQの通訳をしており、そこで同じく通訳をし
ていた母と知り合いました。

 その後、語学力と経済学の知識を買われ会社に就職いたしまし
た。

 語学は堪能で、英語のみならず、ドイツ語(学生時代ドイツ大使
賞、東京オリンピック当時、民間ドイツ語通訳)、フランス語、中国
語、など通訳もつけず戦後世界中に出かけ日本の高度経済を支
えた一人だったようです。

 その頃父の勤めていた会社が外貨獲得日本一だったとか、最
近知りました。
 
 在職中、体を壊した後、国際交流を生涯の道と考え、ユネスコの
認可団体、サーバス友の会(現:日本サーバス SERVAS 
JAPAN)の日本支部長をしていました。

 私自身、少年時代、青年時代は家族よりも外国の方が   
GUEST BOOK ↓

        

 父が亡くなる1か月前の写真↑

 多い環境で過ごしていました。ある意味、自分のアイデンティで悩
んだ人生でした。  
 それは今でも変わりません。

 その父は60歳で突然死、やがて母も認知症を患い介護が必要
になり私もまた体調を壊し 一年半の療養休暇後、早期退職をせざ
るをえませんでした。 
  

 ピアノや語学、民俗学をこよなく愛した母からは歴史や言葉の面
白さを教わりました。
  
 しかし地元でNPO活動に参加したり、母の介護のことで取材され
たりしているうちに、両親の残した世田谷の昭和の家を残したいとい
う思いが強くなりました。        おかげで体調も徐々によくな
り、酸素ボンベを引いて歩いいたのが今では普通に歩けます。

 それが「天野家」を始めたきっかけです。
 
 親孝行できなかった、不肖の息子にできることはこんなことなので
す。


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